震災体験談

蒲生町内会 片桐 勝二さんの体験談

中野小学校へ避難した600人の人達と過ごした24時間

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西原町内会 高橋 誉志男さんの体験談

3月11日

午後2時45分、会社の駐車場に着いて車を降りて間もなく、あの悪魔のような大地震だった。
立っている事が出来なく、地面に腹這いになったが、何度も地面から浮いたり、落ちたりを繰り返した。
地震が弱まったのを見計らい、急いで自宅に戻った。自宅に着くと丁度同じころ、長男も職場より戻ってきたところだった。長男家族に我が家のかわいい愛犬(ブル)を頼んで先に、避難させて、私と次男は、車に物を積めるだけ積んで避難することにした。
3時過ぎになって、妻が仕事から帰ってきた。裏隣の笹谷さんに一緒に避難するよう声をかけたが「弟が迎えにくるから」と言って断られた。
車に積み終わったので、次男が玄関に鍵をかけながら「何か変な音がするよ」というので何気なく東の方を見ると、真黒な壁がそれも10m以上はある真黒な壁が上の方に白波をたてながら、しかも、何百本もの柱を突出しながら、すぐ側に迫っていた。

やばい

一瞬何が起こったのか理解できないまま、それでも口から出た言葉は「逃げろ・・・」 の一言だった。
私、妻、次男の3人はひたすら逃げた。
とにかく後ろを振り向くことなく必至に逃げた。
しかしながら、津波のスピードには勝てずに3人とも津波にのまれてしまった。
海水とは思えない真黒なヘドロのような水だった。そのヘドロのような真黒な水が入った巨大な洗濯機の中にいるようで、体が自分の意志通りに動けず上下逆さま東西南北も分からないまま2、3分はもがいていたようだ。
「もうこのまま死ぬのか」と脳裏をよぎったが、間もなく生まれてくる二人目の孫の顔が見たいという思いが段々と強くなってきて、なにがなんでも生きてやると必死にもがいた。もがいたのが良かったのか、ヘドロの水面から顔を出すことができた。

流された先は

周りを見ると町内にあるパール自動車工場に流されていた。
工場の屋根には社長さんや従業員の方々が避難していて、助けて戴いた。
次男も同じ工場のダクトに摑まって助かっていた。
でも妻の姿が見えないのに気付いた。
次男が、「お母さんは・お母さんは」と言いだして、二人で妻の名を呼んだら、なんと幸運にも、隣の家の屋根に這い上がって助かっていた。(・・・よかったよかった)
私たちが、幸運にも助かったのには、車で逃げないで、走って逃げたので助かったと思う。
今回、車で逃げて津波の犠牲になった人が数多くいる。(今後の教訓として)
私たちが、屋根に引き上げられて助けてもらって間もなく周りから「助けて・助けて・・・」 という声が夜中8時過ぎまで聞こえていた。

寒さと恐怖

屋根に逃げて、助かったのも、つかの間4時過ぎからは雪が降ってきて、ずぶ濡れの私たちは、寒さでこのまま凍死するのではないかと思うほど寒かった。
夕方になって、今度は、あちこちから火の手があがり、流されて来たプロパンガスのボンベが爆発する音やら、車ごと流された人の「助けて・助けて」という叫び声が聞こえて、まるで地獄にいるようだった。
夜の7時ころになって、水位が下がってきたので事務所の2階に移動したので、幾分寒さを凌ぐことができた。
向かいの屋根に這い上がった妻のことが心配で何度も呼びかけていたが、9時過ぎになって返事がなくなったので心配になり、首まで海水につかりながら、隣の建物に行ったが妻の姿が見えなく・・・必至で妻の名前を呼び続けたら「呼ばないで」と妻の声が返ってきた。どうやら、寒さと疲労で返事も億劫になっていたようだ。
私は、ホットすると同時に安心して動けなくなってしまった。

感謝と喜び

明け方になってやっと水が引いたので、パール自動車の皆さんと一緒に脱出することができた。
これも、従業員の皆さんが手を差し伸べてくれたからこそと思います。
3月14日に、長男より二人目の孫が生まれたと連絡があり嬉しくて涙が止まらなく溢れてきた。
生きていてよかった、助かってよかった・・・・

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宮城野消防団港分団和田新田部 部長 村尾 裕之さんの体験談

3月11日東日本を襲ったあの日

私は仕事が午前中で終わり、自宅で昼寝の後、買い物に出かけようと車に乗ろうとした、まさにその時でした。
2時46分、強い揺れが!!地面が割れるのではないかと思うほどすごい衝撃でした。
町内の防災サイレンが鳴り響き「大津波警報」が発令。
すぐ大学生の息子に、父親を車に乗せ仙台駅付近の叔母のところへ向かわせました。
隣近所の安否を確認後職場へ自転車を走らせ帰宅準備をしていた従業員にすぐ避難するように指示しました。
私は消防団の為、消防団詰所(コミュニテイセンター)へ向かい、後輩の団員と消防ポンプ車で町内を広報、住民に避難を呼びかけながらラジオに耳を傾けるとラジオのアナウンサーも消防の無線もパニック状態、信じられない災害状況が次々と流れてくる。
後輩がワンセグでTVを視聴・・・・・気仙沼の映像が・・・町が津波に呑まれていく!
<ウソッ!ヤバイ!!>
広報を終え小学校へ向かうと毛布、ブルーシートが必要との依頼があり、直ぐにコミュニテイセンターへ向かうと、南側土手(七北田川左岸)から水が・・・・
急いで西に車を向かわせたが南側(平山魚店側)からすごい勢いで黒い濁流が!
車をUターンして北へ向かうと、なんと、流された家屋や車がこっちへ向かってくる!

万事休す

消防車を捨て、車を降りると、何とそこにはスーツケースを持ったお婆さんが・・・
「婆ちゃん!何やってんの!早く逃げるぞ!ケース捨てて!」
すぐ、近くの民家(空き家)へ入るがケースを手離さない、もう片方の手にはバッグが(障害者手帳が入っているらしい)
「俺、バッグ持つから」そしてスーツから手を放した瞬間、1階にすごい勢いで水が入りこみ一気に天井まで!!油臭い泥水を飲み込む!
私はこのままで助からないと思い、お婆さんの頭を水に沈め、鴨居を避け隣室に、手探りで何かを掴むと
<2階への手摺だ!>
必死にお婆さんを引っ張る、何とか2階へ、
<3人とも無事だ!>
押入れから、タオルや寝具を取って暖をとるが、かなり寒い!!
(こんな寒さは初めて)
周りではあちこち火災が発生。津波警報のサイレンが鳴り響く
(これより水位が上がったらどこへ逃げよう?火が延焼したらどこへ逃げよう?)
携帯電話、ラジオは水没で使用不可能、・・・
懐中電灯と防災無線だけは防水の為無事だった。
無線で消防無線を聞く・・・
何度もヘリコプターは来るが被害状況確認のみ、洪水の為消防車が出動出来ない!
(周りにはたくさんの人が救助を待っているのに・・・)
お婆さんの体調も心配だ。このままでは低体温症になる。
濡れた靴下を脱がし二人で足を摩り、眠らないように時々声をかける。

近くまで消防レスキュー隊が来ている!

・・・・
しばらくして、無線を聞いていると
<近くまで消防レスキュー隊が来ている!>
この距離だったら、水位が高くても呼びにいけるかも?
1階に降りてみると水位は胸位まで下がっている。そのままレスキュー隊のいる場所へ向かう。
ガレキには雪が積もっていてあちこちで電柱が倒れ電線が垂れ下がり、ガレキの山、
<うそ!アパートが真っ二つの状態で道路を塞いでいる・・・これ以上進めない・・・この光景は映画のセットか?>
あきらめて避難した民家へ戻る。
今度は東側の火災が近づいてくる。周りでは<早く助けて!!>と叫ぶ女性の声が・・・
しかし、ヘリコプターからは何のアクションもない、
<スピーカーでけが人の有無等確認しないのか?・・>
明け方近く消防ヘリが空中消火を行い、やっと火災が鎮火。

3月12日午前10時レスキュー隊到着

<あちこちでヘリコプターの救助活動が始まる>
我々は隊員の誘導で徒歩でガレキの上を移動.何故かすごい量の缶ビールが散乱している!?
何と仙台新港からの津波がキリンビール工場を直撃、工場内の製品がコンテナごと流されたとの事。
ガレキを乗り越えやっと路上に・・。
そこでお婆さんを自衛隊の人に病院搬送をお願いし、町内の人達が避難している高砂市民センターへ徒歩で向かう。
その後、家族と連絡がとれたのは地震発生三日後でした。
父は1週間ほど叔母等親戚で世話になり、その後、妹の住むアパートへ移り、妻と娘は高砂小学校、私は高砂市民センターで避難生活。
息子は友人宅等を転々と。
私は避難所での町内サブリーダーの為、市民センターに残り、現在のアパートで家族と合流出来たのは、約1ヶ月後でした。
3月11日、あの悪夢の日、特に津波が来たときは無我夢中でしたが、3人とも無事だったのは奇跡だったと思います。
そして、あの油臭い泥水、体験した事の無い寒さ、映画のようなガレキの山
これだけは鮮明に覚えてます。
最後に1ヶ月程お世話になった高砂市民センターの館長はじめスタッフの皆様、近隣の町内会の方々、ボランテイアの皆様に感謝いたします。特に浅見館長は自分自身も疲労の限界を超えいるのに、夜中に、避難者にそっと毛布をかけてあげている姿は忘れません。

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蒲生町内会副会長 片桐勝二さんの体験談

私たちの住む蒲生町内会は仙台市立中野小学校を中心とした、4つの町内会で構成している中野学区の一町内会です。中野学区の4つの町内は昔から強い地域の絆で結ばれておりました。
3月11日に発生しました、東日本大震災において私たちが住む中野学区は壊滅的な被害を受け、家屋はほとんどが全壊、流失し、そしてこれまで長年に亘って築き上げてきた財産や思い出はすべて失いました。又、死亡者も4地区合わせて約150名弱と記憶しております。その中には私の母親と兄夫婦も含まれています。
私は、地震発生時は自宅におりました。あの強い揺れを感じながら、一旦自宅の表に出て様子を見ていましたが揺れ収まる気配がないので、家内を小学校へ避難するように指示し、私は自宅周辺の方々を小学校へ避難するように声を駆け回りました。そんな中で高齢者の方が茶箪笥に足を挟まり動くことが出来なかったので避難中の若い方々に手伝ってもらって小学校へ連れて行ってもらいました、又、犬を抱きかかえながらおろおろする人たちも多くいたので小学校に避難するように大声を出しながら回りました。そして私が小学校に着くと誰かが津波が来ると叫んでいたので、小学校に避難していた全員で屋上に上がる階段や屋上に駆け上がり津波襲来の様子を見ていました。みなさんがテレビ等で見たあの津波の襲来を小学校に避難した全員は呆然と直視していました。そして中野小学校と2階以上の工場の建物だけが残り蒲生町内のすべての家屋が流失してしまいました。
その後、津波の状況を見ながら屋上から周囲を見わたしたら小学校の建物付近に流されてくる人や、家屋に取り残されて小学校建物に近づく家屋あったので、声をかけながら消防のホースをロープ代わりにし引き上げて助けることが出来ました。そして小学校の状況は避難した人々には誰一人被災した方はいませんでしたが、中野小学校は津波によって1階が水没し、避難した私たちは孤立した状況におかれました。
水位が徐々に下がり始めてから避難していた人達と2階の廊下や教室の床の泥や割れた窓ガラスの破片などを片づけて通路を確保し、各教室に椅子を並べたりして休息する場所を設けました。その時の小学生が作業を率先して行った行動には感動を覚えました。各教室には地区ごとに分かれ、高齢者や赤ちゃんを抱えた母親にはゆったりできる和室などに入ってもらいましたが、かなり窮屈な状態だったと思います。各教室に分かれてから学校からコピー用紙をもらい安否の確認と避難者の人数を掌握するために地区名、氏名を記入してもらいました。中野小学校に避難した人は大人、児童、赤ちゃん合わせて約650名が避難していました。
中野小学校にあった非常用緊急物資は水と非常食のみで、当日は雪が降り非常に寒かったので寒さをしのぐ毛布等はなかったので、他の町内会役員の方が緊急無線で消防局に要請し、毛布をヘリコプターで搬入してもらい寒さをしのぐことがました。又食事は学校にあった非常食のアルファ米と水を使用して婦人防火クラブの女性方々が作ってくれて食べました。あのような状況の中での食事はとてもおいしく感じました。

津波の後の中野小

又、小学校に避難された方の中に避難中に怪我された方、体調を崩した方や障害児を抱えた方などが多く避難されていたので、消防局に緊急搬送のヘリコプター要請し、避難していた若者たちが手伝いながら送り出していました。そして、小学校に残った避難者は余震や津波の怖さや寒さを肌にひしひしと感じながら一晩寝ずに過ごしていました。
翌朝、小学校の屋上からオレンジ色の太陽が東の海から昇るのを見つめながら周囲を見渡すとこれまで住んでいた中野学区の4町内が無残な姿に変貌し、すっかりと心が打ちのめされました、そして、そこには私たちの地域のシンボルであった日和山の姿もありませんでした。

中野小から日和山を望む

3月12日の朝から自衛隊のヘリコプターの避難が開始され、又、同じころより七北田川の堤防の上にあったがれきの片付け作業も開始され、中野コミセンまでの道路が確保されたころより自衛隊のヘリコプターと市営バスによる避難が始まりました。自衛隊のヘリコプターでの避難先は霞の目駐屯地で市営バスの避難先は仙台市立工業高等学校でした。又、中野小学校に家族が迎えに来た避難者はそれぞれの避難先行きました。私は中野小学校に避難した全員を送り出した後、最後に小学校教頭先生と避難していた佐々木さんと3人で自衛隊のヘリコプターで霞の目の駐屯地に向かいました。向かう上空から見た震災後の爪痕は散々たるものに驚きが隠しえませんでした。そして、中野学区の地域がばらばらになったことを確信しました。
その後の仙台工業高等学校へ避難した人達や親せきなどへ避難した方々がどのような避難生活を送ったのかはわからない状態になりました。
私は、霞の目駐屯地で一夜を過ごし3月13日から仙台市立八軒中学校で4月8日までの約1か月間のあいだ多くの方々からの支援を受けながら慌ただしく避難所生活を送りました。そして4月10日に宮城野区内や若林区内に分散して避難所生活を送っていた中野学区の地域住民が宮城野体育館に集約して避難生活が始まりました。
宮城野体育館においては、避難所の運営委員長として3月間にわたり避難所4各地区の方々からの協力を得るとともに、全国の温かい支援を受け、そして、仙台市職員や各自治体から派遣された職員の方々の指導や協力を得ながら避難所の運営ができたことは、人生60年余りの私の人生にとってかけがえのない経験をさせて頂きました。

避難所となった宮城野体育館

今、改めて半年の経験が私にとって数多くの絆ができたことを実感します。
しかし、この中野学区の地域の絆について考えてみますと、震災後の6か月間の時間の経過が大きく変わった様な気がします。それは、海に例えれば寄せては返す波のような気がします。中野小学校に避難し、1次避難所分散し、次に2次避難所集約され、又、仮設住居(プレハブ仮設・借り上げ民間住居)に分散し、最後に新しい移転候補地に集約されるような気がします。各避難所で構築された絆が結ばれたり、離れたりするようになるのではないかと懸念します。
今、私たちの中野学区の4町内会が集まり、中野学区復興委員会を和田町内会の高橋会長を先頭にし、月2回の会議をもちながら中野学区の復興をめざしております。その活動の一環としてインターネットにブログを開設し、委員会の活動の報告や各仮設住宅のイベントや情報を発信しています。又、パソコンの持っていない方々にはブログの情報を印刷し、月1回の定期刊行物として郵送し情報の提供を行いながら地域の絆を行こうと考えております。

復興委員会にて

今、中野小学校の児童は同区内の中野栄小学校に校舎をかりて勉強に励んでいます。 先日、9月11日に運動会を見学に行きまして、高学年の児童が体育館に壊れずに残っていた和太鼓を力強く演奏していた状況を見まして、我々が子供たちに残さなければいけないことが【地域の絆】であることを実感しました。 震災後、他の区の小学校へ転校した子供が中野小学校の運動会に参加し、母親に中野小学校へ戻りたいと話していたと母親から聞いた言葉が心に残りました。

ご静聴ありがとうございました。


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