震災後100日間の取り組み

震災後100日間の取り組み 蒲生地区町内会長 高橋 實の手記より

ここでは、和田町内会長高橋實氏からの聞き書きをあげる。
なお、高橋氏への聞き取り調査は、2011年7月5日に行ったが、そのさい高橋氏に手帳にあった断片的な記載をもとに話をしていただいた。
高橋氏は、そのユニークな人柄で、独特な語り口もあって地元で慕われている存在である。
たとえば、〝泥だらけ〟は〝でろだらけ〟、〝家の家内〟は〝おらいのがが〟といった感じである。
その特徴的な喋りを、そのまま採録は出来なかったが、それを想像しながら読んでいただければと思う。

そのとき

私は、3月11日14時46分の大地震発生の瞬間、仙台市宮城野区蒲生の岡田会館で開かれていた七北田川環境美化促進協議会の会議の席上にいた。とにかく、これまでにない激しく長い揺れで、その間は体を支えるのに精一杯。揺れがおさまり、隣の部屋で開かれていたダンス教室の様子をみると、腰を抜かして動けなくなっていた人がほとんどだった。
なお、この岡田会館の場所は、七北田川河口近くの右岸に位置し、住所に蒲生が含まれるのであるが、地元では岡田地区と呼ばれる。
私の住まいは、七北田川の左岸に位置する宮城野区蒲生字屋敷であり、そこには七北田川と掘り込み式の仙台新港に沿って集積された工場地域に挟まれるかたちで4つの町内会がある。
これら4つの町内会(海岸近くから町・港・西原・和田の順)のある場所を、地元では蒲生地区と呼んでいる。

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津波の襲来

地震発生後、私は即座に自宅へ戻り、ラジオで情報収集を開始した。
すると、仙台港へ10メートルの津波が襲来するとの情報があり、和田町内会の消防部長村尾裕之氏、防災部長菅野昌明氏に連絡をとり、住民への避難勧告を開始した。
そのさい、妻と高校年生になる孫を町内の北側にあるキリンビール仙台工場の南門まで送り、町内の避難場所となっている同社工場へ逃げ込むよう指示した。南門から同社工場事務所までは、歩くのにはだいぶ距離があったが、このとき、すでに仙台方面へ向かう車道は大渋滞となっていて、これ以上進めば町内へ戻れなくなると判断し、そこで降ろすことにしたのだった。
このとき、孫に「ここからずっと歩くの・・・」といわれたのを今でも覚えている。
地震後、約35分で蒲生地区に大津波が襲来し、渋滞していた車はあっという間にそれに呑まれてしまった。
私は、町内へ戻ったものの、避難するしかなく、自宅の北側にある鉄筋3階建てのマンション「さくらフォレスト」の2階通路へ逃げこんだ。和田町内には、鉄筋で、高層の家屋はこれ以外にほとんどないといった有様なので、逃げるにもそれ以外場所がなかった人が多かった。
私がオートロック式のマンションに入れたのは、停電が幸いし、入り口のドアロックが解除されていたためである。そのため、人力で自動ドアを空けることができ、そこに、逃げ遅れた10名の方、津波に追われるようなかたちで飛び込んできた。
津波襲来後は、2階通路から3階通路へ移動し、一緒に逃げ込んだ10名で、通路から身を乗り出し、流されてくる人を9名ほど救い上げた。そして、マンションの空室をみつけ、避難してきた自動車整備業の千葉氏がたまたま持っていたハンマーでドアをこじ開け、そこで一夜を過ごすことにした。

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救助要請

11日午後8時頃、携帯電話に、中野小学校校長伊藤公一氏から着信があった。
中野小学校に約600名の住民・児童が取り残されており、「なんとか救助を・・・」ということであった。そのとき、私の脳裏に、ふっと苦竹自衛隊駐屯地で指令として勤務している孫のことが浮かんだ。即座に連絡を取り、状況を伝え、命がけで取り組めとだけ言って電話を切った。
当時、携帯電話はかなり繋がりにくくなっていたはずなのだが、なぜかこのときは繋がったのである。
これによってか、その後まもなく、中野小学校に自衛隊のヘリコプターが到着したのが見えた。自衛隊機は、しばらく上空を旋回して救助方法を模索していたようであったが、まもなく、隊員によって救出が開始されたようで、私は幾度となく往復している自衛隊機に向かって、敬意をこめて懐中電灯の明かりでサインを送った。すると、自衛隊機から、サインが返されてきたのであったが、この援軍に対して、ただただ涙があふれるばかりであった。
後日、中野小学校から、生存者全員の救助を確認した小学校長、連合町内会長片桐睦男氏が最後にヘリに乗り込み、救助が完了したという連絡を受ける。いずれにせよ、そのときは、これは宮城県沖に限定した被害であると思い込んでおり、まさか東北地方における太平洋側全域が、後にみる大惨事となっていようとは想像もつかなかった。

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翌3月12日

とにかく、キリンビール南門前で別れた家族が気がかりであった。とはいえ、町内会長としての使命感から、私は、独断で「和田町内会災害対策本部」の設立を思いつき、カレンダーの裏にマジックで本部名を記した張り紙を電信柱数箇所に張った。本部の場所は、昨晩過ごしたマンションの一室とした。それから、町内の数名と自転車を確保し、キリンビール仙台工場へ向かい、そこで家族との再会を果したのであるが、避難者は仙台市立工業高校体育館への移動を命じられた。しかし、工業高校体育館に着くと、そこはすでに満杯の状況であった。
そこで、私は、日頃から使っている高砂市民センターの開放を思いつき、和田町内会役員の末永幸紀氏が、館長浅見健一氏へ要請すると、館長は〝わかった〟と二つ返事で引き受けてくれた。そして、約30名の町内会員とともに、同センターへ向かったのであるが、そこは仙台市の指定避難所とはなっていなかったものの、既に1,000人近い人で溢れていた。
その後、ここが蒲生地区にとって重要な避難所となっていったことは周知の通りであり、15日には1200人を超える避難民であふれたのであるが、館長の配慮によってこの事態を切り抜けるのである。だが、私が、そこで過ごしたのは一晩だけであった。

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和田町内会災害対策本部の設置

3月13日、早朝より私は町内の巡回を開始し、家族を探す町内会員に付き添った。
そうしているうちに、私は、避難所を離れ、自宅(災害対策本部)に戻ることを決意した。
夕方になってから、妻にそのことを打ち明けたのであるが、「なんで奥さんまでつれていくの」と周りからは責められたものの、「とにかくお母さん来てくれ」と説得し、妻と避難所を離れた。そのときは、とにかく町内に戻らなければならないという一心だけであった。
3月14日になると、町内に窃盗行為の痕跡が見られるといった報告があがってきた。
そこで、避難所の町内会員に、家に戻って通帳と印鑑だけでも取ってくるようにと話をしたのであるが、幸い、通帳や印鑑が盗まれたということはなかった。そういったこともあり、「和田町内会災害対策本部」の第一回会議を、急遽同日に開催することにした。 ただ、会議といっても、泥まみれのなか、役員が膝詰めで語り合ったのであり、もちろんお茶や資料などない。
翌15日にも会議を開催、そこでは、2階への居住の可能性や道路復旧の優先順位についても話し合った。
この頃になると、この災害対策本部に、様々な人が尋ねてくるようになり、そこは相談所のようになっていった。その相談のほとんどは蒲生地区の住民、そこにある企業の社員の安否など、まさに尋ね人への応対に忙殺された感があった。
この「和田町内会災害対策本部」は、私が〝勝手につくった対策本部〟であり、町内会員の理解のもとに行ったわけではない。とはいえ、勝手につくった対策本部が、勝手に機能し始めていたのであり、同日からここでの話を宮城野区役所へ報告することにした。そのさい、宮城野区長木須八重子氏および副区長齋藤邦彦氏から、「蒲生地区の連絡役になってほしい、ただ、災害対策本部は仙台市で設置しているから、委員会という名称をしようしてはどうか」という打診を受けた。勿論快諾した。
この日より、ほぼ連日区役所へ日参したのであるが、泥だらけの格好で訪れる私を、区長はじめ区役所職員は何も言わずに笑顔で迎え入れてくれた。これがたまらなく嬉しかった。そういったことから、私は現場責任者のような役割をも担うようになり、16日からは、生存者捜索に一区切りを付け、捜索活動に転換した自衛隊の担当者が、毎朝6時に私達の対策本部を訪れ、その日の活動の打ち合わせを行うようになった。そこで私は、知りうる限りの情報を提供し、当初1週間は朝から晩まで活動を共にした。
その後も、毎朝6時きっかりの打ち合わせは続いた。
ただし、この災害対策本部は、一定の役割は果したと自負するものの、組織だった動きをするには至らなかった。

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中野小学校区災害対策委員会の設立

以上のような経緯から、私が勝手につくった「和田町内会災害対策本部」は発展的解消ということになり、あらたに「中野小学校区災害対策委員会」が設立されることになった。そのさい、地元選出市議伊藤新治郎氏に相談したところ、4町内、すなわち蒲生地区全体でやることをアドバイスされ、各町内会の会長に副委員長に就任していただいた。
ただ、港町内会の会長二瓶幸夫氏は、津波で亡くなられており、港町内会からは佐藤政信氏が打ち合わせに参加し、後日、新会長佐藤武夫氏に副委員長に就任していただいた。
委員長には、年長者であるということもあって、私が推挙された。
3月20日、第一回中野小学校区災害対策委員会が開催された。そのことが、3月26日の『河北新報』において、「分散避難復興妨げ/仙台・蒲生/住民連携に不安」と題された記事のなかで報じられた。そこでは私の「今は住民の考えを把握することすらできない。蒲生が一丸となって復興できる態勢を整えたい」とうコメントが掲載された。とはいえ、この段階で、地域コミュニティをどうするかといった問題を本格的に話し合えたわけではなく、委員会の議論の中心は、死亡確認や生存者の避難先の確認であり、とにかく想像以上の死亡者が出ていたのである。ただこの会議の中で、瓦礫の撤去場所等を住民側から行政に打ち出せたのは大きかった。
第一回の委員会より、宮城野区まちづくり推進課長佐藤俊宏氏が会議に参加し、地元の意向を拾い上げ、それを行政の決定に結び付けていったことがこの地区の瓦礫の早期撤去につながったのであるが、そこには、休日返上で地区に入っていた彼の尽力があった。
なお、当委員会は、毎週日曜日の開催とし、第1回から第3回までは、宮城野区白鳥にある白鳥幼稚園で午後1時から開催したのであるが、第4回から第12回までは宮城野区新田の区体育館で午後時から開催することにした。
そこには仙台市宮城野区から職員が毎回参加したほか、自衛隊・東警察署等も加わった。

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中野小学校区復興委員会の設立

6月19日より、「中野小学校区災害対策委員会」は、「中野小学校区復興委員会」と改称されることになった。それは、瓦礫の撤去が約50パーセントを超え、仮設住宅の入居もある程度まで進んだことによる。この間、各町内会単位での行政説明会も開催されるようになった。
現在、当蒲生地区では、地区の全面移転か、一部が残るかで意見が割れている。
地区内における工場主らにとっても、そこに関心が注がれている。業務の再開を目指すにも、土地利用の決定がなされていないからである。
今後、この問題が委員会の議論の中心になっていくことであろう。

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蒲生地区の移転にかかる議論

私のところを訪れる町内の住民が、かならず言っていくことは、「会長さん、ここの土地どうなるの」ということだ。
具体的には、「私はここを離れて娘のところにいくけど、息子は住めるなら、住みたいといっている、どうですか?」、「大丈夫っていうから工場の復旧をはじめたけど・・・、本当に大丈夫なの?」といった感じである。
とにかく、情報が入らないとよく言われる。そこで、この話も付け加えておきたい。
蒲生地区からは、昭和40年代に、すでに約700戸が移転している。それは、仙台新港の建設のためであり、そのとき移転させられたのは、追分・赤松・北新田・沼向・神妻の各集落であった。そこに住んでいた人達は、仙台市宮城野区安養寺(現宮城野区東仙台7丁目)・仙台市宮城野区中野新町(現宮城野区白鳥2丁目)・塩釜市清水沢・多賀城市町前・同市大代3丁目・同市大代自衛隊前に分散して移転した。ちなみに、現在の東洋製罐のところにあった中野小学校も、そのさい七北田川に近接する現在地に移転したのである。あのときの移転から、約30年が経過しているが、離れるとだんだん疎縁になっていくものであり、我々はまだしも、息子たちの世代ともなると、同じ集落だったという意識は薄れているのではないかと思う。
今回の大震災による蒲生地区の移転先は、宮城野区の田子地区ということだ。ここにある水田を整備して、そこを移転地にするという計画が、委員会に報告されている。ただ、すぐに行けるというわけではなく、実際に住めるのは数年先になるんじゃないかと思う。もちろん、タダで行けるわけではない。水害前の蒲生地区の地価は、1㎡あたり4.3万円、田子地区は6.5万円だったし、これがどういう扱いになるのか。仙台市では、一区画を70坪で考えている。移転には当然減歩もついてくし、“すくも”と呼ばれる草炭土壌である可能性が高いことも気になる。
10戸単位の集団移転の話もでているが、仮設住宅の入居のときもそうだったように、そんなに上手くいくとは思えない。
地区内には、新築して間もなかった住宅もあり、地震保険に入っていたかどうかはわからないけど、二重ローンに苦しむ人もでてくるはずだ。そういったことだから、移転先には、県営あるいは市営のアパートを建ててもらうこともお願いしなくてはならない。あとは、どれだけ時間がかかるのかということだ。10年先では、我々はどうなっているのか。せめて5年だろう。
この地区は沿岸部ではあるけれど、漁業に関係する人はほとんど住んでいない。その意味ではほとんどの人が、条件さえあえば移転に応じるだろう。さっきもいったけれども、私は、海岸線の防潮堤に加えて、地区内に防潮堤を二重、三重に築けないかと考えている。そして、そこに海浜公園をつくり、中野小学校の建物をそのまま残すなど、今回の大津波の教訓を残すとともに、観光地化させることを提案している。災害だけでなく、江戸時代以来のこの地区の歴史、町・港地区は、水運の要所であったことや蒲生干潟もこの公園計画には盛り込んで欲しい。今回の慰霊碑ももちろん造ってほしい。

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心残り

以上で震災後約百日までの私の取り組みに関する話は、一段落とさせていただくが、心残りがある。それは、この期間、津波による死亡者の葬儀に一切出席しなかったことである。とにかく、来訪者への応対や雑務に追われていたこと、体力的な限界、町内を離れることへの不安がその理由であったが、非難されても仕方がない。ただ、そういったことのお詫びもこめて、4町内あるいは和田町内会単独での慰霊祭を開催したいと考えている。また、震災後100日を経て、町内のコミュニティをどうするかといった問題が切迫した課題として浮上している。まずは、話し合いの場が必要と考え、自宅敷地内にもともとあったプレハブを補修し、一部を開放してきたのであるが、現在そこに大勢の方々の訪問を受けているものの、日に日に町内を離れる方の挨拶が増えている。なんとか交流を繋ぎ止めたいと考えている。若手の町内会役員も、その意識は強い。
本来ならば、彼らに町内会の代表も譲るべきなのかもしれない。だけど、もう少し町内会長を続けさせていただきたいと考えており、幸い、彼らからももう少し続けるようにいっていただいた。
津波は誰のせいでもない。誰かを責めるのではなく、先祖がこの地を開拓したときのことを想像し、いまこそ自己責任で行動するときだと思う。

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